しかし反撃もここまで

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「グラン・トリノ」は俺の映画か?

Category: 映画  
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今更だけど「グラン・トリノ」について。
うちにはPS3があるからアマゾンへのリンクもBlu-ray版さフフン。

グラン・トリノ [Blu-ray]グラン・トリノ [Blu-ray]
(2009/09/16)
クリント・イーストウッドビー・バン

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映画ファンの端くれの味噌っかすとして、これがいかに傑作であるかということをいろいろな側面から説明する準備も十分にあるし、多くの人が高く評価するのも、語りたがるのも当然のことと思う。
それについて一切批判する気持ちはありません。

しかーしだ。
多くの映画誌やウェブ上のサイト、ブログなどにおいて、2009年ベストランキングでこの映画が上位(それも大抵は3位以内)に挙げられているのを見ると、多少の違和感を感じてしまう。

正直に言えば、自分は冒頭部で息子に感情移入し、それを引きずってしまった。
頑固爺さんに愛想を尽かし、仕事や家族を優先させ、トヨタ車に乗り、死んだら車をもらおうと思っている、「現代的で合理的な」息子家族。
偏屈な爺さんの訳の解らん論理に振り回され、苦労し、コミニュケーションが取れず、せっかくの優しさも踏みにじられ、やがて諦め、感傷を捨て合理的な判断をする自分を良しとする。
それは現実においては、誰からも責められることはないし、むしろ正しい決断として肯定される。
私自身もそう思うし、実際にそう行動している。
安易な感傷や愛憎なんて百往復して、とっくに擦り切れてしまったよ。

で、なんでみんなそんなに簡単に、コワルスキーやタオ側に立って語れるんだ?

自らの小さな体験にこだわり、この映画で扱っている大切なテーマから目を逸らすことが愚かなのはわかる。
俺は年寄りが嫌いだから、何を言っても聞く耳持たん、という無益な世代の断絶や拒絶を肯定しているわけでもない。
宇野常寛のような人が、自己憐憫的でマッチョイズムの軟着陸を可能にしている、と批判するのもある程度理解できるが(日刊サイゾー記事)、それも批評に過ぎなくて自分が感じている違和感とも異なる気がする。
恐らくもっとミニマムな、日常と地続きの問題だ。

要するに自分が感じているのは、ここ数回のエントリーで繰り返していることだが、自分のこととしてこの映画を観たときに、

・オレは本当にこのジジイの決断に共感出来る、或いはすべき人間なのか?
・散々老害に苦労をしてきたオレが、今この状況で、自分の人生を総括し
 決断をする老人の心の機微を理解し、我が身に置き換え、心から涙する
 準備が本当にあるのか?


そこをもう少し真摯に、そして慎重に考えてみるべきなんじゃないか、ということだ。

*************************************

この違和感は、もしかしたら國母選手への例の件への世間の反応に対するものと近いかもしれない。
グラン・トリノを賞賛するにしろ國母選手を批判するにしろ、そこに語り手の、自己批判や現実へのフィードバックを伴っていないという点で共通する空虚さがあるんじゃないか。

もちろん私だって、社会人として國母選手を批判するロジックはいくらでも準備出来る。
組織の代表として協会側の言い分もわかるし気持ちも察する。
「社会的倫理感」を得意げに振り回す人達の心理的要因もまあ理解しよう。
けれど、善し悪しの判断以前の、もっとシンプルな感情として、
「おいおい、お前も俺も、ムカつく説教を散々聞かされた側じゃなかったのかよ?」

という、少し裏切られたような、怖いような気持ちが沸き上がる。

誰しも社会に出立ての頃はその若さや甘さから苦労し、反発もし、しかしひとつずつ学んでいって大人になっていく。
それ自体は個人にとって有意義な経験だし社会にとっても必要な機能だろう。
だが、同世代の友人知人を見ていると、必ずダメな奴から「今年の新人は使えねえ」と言い出す。
(私のささやかな経験による結論ではあるけど、多くの人に賛同してもらえる法則だろう)
「ゆとり世代」がゆとってるかどうかの証明は非常に困難だしそもそも一概に言えないが、「ゆとり使えねえ」と言う人が愚かだということは歴然としている。

自分が「使えねえ奴」だったことなど忘れ、いや依然として「使えねえ奴」だからこそ、先輩風を吹かせて自らの存在価値を確保するのに必死になってしまう。
「おいおい、お前も俺も、理不尽な先輩に中指立ててた側じゃなかったのかよ?」
「大人になる」ってそういうことじゃないぜ。
お前はどうなんだよ。

*************************************


「子どもの頃は親に迷惑をかけたけど、自分が子どもを持ったら親の気持ちがわかったよ」

というセリフは口にしないようにしている。
それは単に、子どもの頃は子どもの理屈で、大人になったら子どもの頃の気持ちは忘れて大人の理屈で動くということで、つまりは想像力を放棄し、その時々で自分に都合の良いように物事を解釈しようとするということだ。

しかしそう思うならば、仮にジジイの境地には至らなくても、少なくともいろいろな想像は出来るのでは?
「ラストの決断をしたコワルスキーに感動で震えがナンタラ」
「イーストウッドが俳優引退作として、これまでのキャリアを総括しカンタラ」
「アメリカがこの半世紀に積み上げてきた政治、経済、宗教様々な問題を体現しているからこそウンタラ」等々と。

批評家が映画の、映画としての完成度の高さを評価したり、テーマや背景を解説するのはもちろんとても意義ある作業だ。
「体験」していないこと以外は口を出してはいけない、という間違った経験原理主義みたいな主張をしたいのでも当然ない。
またイーストウッド作に特に愛着があり、「男」とは何かを教えてもらい、ともに成長してきたという人にとって本作はかけがえのない作品で、そういう「体験」もあるだろう。

しかし今の自分が「ジジイの気持ちがわかるぜ」と表明するのは、これまでの自分の人生における行動や環境を考えると、まったく不誠実だと思うし、まるで高みから偉そうに語る傍観者のようで嫌だ。
個人が批評家のまねごとをしていい気になって何になる。
お前はどうなんだよ。

目の前で火事が起きた際に、火事だと叫ぶ役目も、バケツを運ぶ役目も、消火栓を探す役目も、その手際の良し悪しを評価する役目もあってしかるべきだし、社会全体のためには必要なことだろう。
でも、みんなでバケツをグルグルとリレーし、得意げにその速さと所作の巧みさを競って回し続け、いつまで経っても誰も水をかけず、飛び込みもせず、燃え盛る炎を前にして「消防署のサイレンの響きに感動した」とか「バケツの大きさはこの半分であるべき」などと優雅にも語り合い、その上逃げ出しすらしないのは笑えない状況だ。

だから自分は、ここで不毛なバケツリレーをやめ、今回は勇気を持って逃げ出す。
オレには、この映画の語るイーストウッドの真意やアメリカ社会の抱える歴史的文脈をたとえ理解は出来ても実感は出来ないし、今は必要としていない。
だから自分はこの映画を高く評価していい気になっちゃいけない。
もしかしたら将来、この映画を号泣しながら観る日が来るかも知れないが。


※ついでに言うと、宇多丸さんはタマフル内での2009年ベストで、イーストウッドフリークとして「グラン・トリノ」を2位に挙げつつ、「俺の映画」という意味で「SRサイタマノラッパー」を1位にしており、そのことでより一層シネマハスラーを信頼した。

タマフルポッドキャスト
「シネマ・ランキング2009【ベスト10】【ワースト10+3】」

 それなら「ハートロッカー」論についてもそういう観点に立ち位置を置いてみる、ということが出来たはずじゃないかな、ともちょっと思ったが、客観的批評をしようと努めていたのだからその気持ちももちろんわかる。


【追記】

なにも「グラン・トリノ」でこのテーマについて書く必要もなかったかな…。
「レスラー」や「アンヴィル」みたいないわゆる男泣き映画について敬意を払いつつもロクに勝負してないオレみたいな奴が安易に「泣いた!」と言うのは不誠実だ、という話にすればよかったかも。

つかもっと平たく言えば
「童貞じゃないくせに童貞トークに入ってくる奴、死ねばいいのに!」by片桐仁
って話だな。

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テーマ : 映画レビュー    ジャンル : 映画

ゲームのアトラクション化の可能性

Category: その他レビュー   Tagged: ポッドキャスト  ゲーム  映画  
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 「映画のアトラクション化」というエントリーを以前に書いたのだが書き足りなかったことを少々。

 前回は映画とゲームの比較と進化について、軸足を映画側に置いてみたので現在のゲーム業界の主流からは正直ズレてしまっている。

 要するに、今後はwiiやDSなどの新しいインターフェイスを使ったゲームや、携帯ゲームやiPhoneアプリなどの手軽さとモバイル性、そしてソーシャル性を活かしたゲームが中心になっていく、というかとっくになってしまっている状況だ。
 コアなファンほど正論と正義感と使命感をもって抗したい気持ちになるものだが、よりシンプルに、よりテキトウに、よりワイワイやる方向に進む。
ゲームに限らず文化の成長、成熟、衰退とはそういう過程を経るものなんだろう。
 
 だから「”よりアトラクション化する映画”としてのゲーム!」なんつう議論は時代遅れの価値観を前提としているのであって、最早誰もゲームにそんなことなど期待してねえよとか、メンドクセーって話なのかもしれない。
まあ正直オレもそーだわ。
 
 じゃその流れは今後どう展開するかって話になるが、例えばセカイカメラみたいに、現実にゲーム要素を持ち込んで、その際に最新のツールが有効に活用される、みたいなものは確かに楽しいんじゃないかな、とベタながら一応は思う。
 それが所謂ARと呼ばれるようなものと括っていいのかわからないが、現実は高度に作り込まれた無限の容量を持った箱庭なんだから、その世界観を活かさないのはもったいないかもな。

*************************************

 ※この辺の話は、敬愛する「アキバ系!電脳空間カウボーイズ」でケイス淀橋(清水亮)さんらが語っている内容が非常に示唆に富んでいて面白い。
  後編に収録されている「Like a Turing Machine」も最高。

 「第三百十回 Alternate reality gameの世界 前編
 「第三百十一回 Alternate reality gameの世界 後編

 RPGはファンタジーでなければならない説、ゲームデザインにおけるジレンマの外在化、Alternative RealityとAugmented Realityの違い、伝説のTRPG「トラベラー」について、ドラクエⅠ製作時の堀井雄二の悩みなど聞き所満載だけど、やはり「クリムゾンフォックス」の話は面白い。
 ただ、ケイス淀橋さん自身も行っている通り、このままじゃまだあんまり楽しくない、ていうのもわかる。
 話を聞く分には楽しそうだね、とは思うけど、実際に金を出して出かけて参加するほどの動機がないのかな…?
 広告屋が主導するキャンペーンや広告などの「イベント」ではなく、純粋にゲームとしてどれだけ面白いものに発展出来るのかって部分は、部外者の自分にとっては酒のネタで一晩友達と話し合うのに格好のネタかも知れないな。

「クリムゾンフォックス 渋谷の街に隠された暗号を追え」
http://onosendai.jp/crimsonfox/
「マチ★アソビ」
http://www.machiasobi.com/
「ニューヨークのどこかに1万ドル入り宝箱、サイトでヒントを順次公開(ナリナリドットコム)」
http://www.narinari.com/Nd/20100814007.html
「路上ミステリー:ニューヨークウェーブ(NHK)」
http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=101-20101023-11-05473

 そう言えば、たしか94年頃だったと思うが、リアル宝探しの謎本のようなものが出版されて一時話題になった記憶がある。
 見開きでズラッと日本人形だけが並んでいてワケワカラン、みたいな奴だったが、あれは一体なんだったのかな。
 グーグル先生はきっと知ってるハズなんだが、どう質問(検索)すればいいのやら…。
 その後、お宝はポートピアに埋めてあって、阪神大震災で回収不可能になりゲームが終了した、という噂を聞いたのだが、今考えてみればいかにもな都市伝説っぽいので、恐らくガセだったんじゃないだろうか。

 ついでに思い出したが、幼少時だから70年代後半になるが、家に洋書の絵本があり、イラストを縁取るアルファベットに何か謎が隠されている、という話を姉に聞いて必死で考えたが、これも謎のままだ。
   →「Masquerade」というイギリスの絵本だということが判明
   Wiki「仮面舞踏会(絵本)Masquerade
   各ページの解答(英語)イラストあり
   こういう本を「アームチェア・トレジャー・ハンツ」と呼ぶことも知った。



 さらにググッたらこんなのも出てきた。

 「君は「宝探し本」を覚えているか?」
 
 こういう試みが繰り返しなされ、そして今ひとつ定着しない状況を鑑みると、ARGにはやはり技術的なブレイクスルーを応用して新しい価値観の創出とか、ある種の異化作用は必須なのかなということと、もしくは経済的、倫理的なブレイクスルーによって新たな体験(例えばクレーン車で高級車をぶっ壊すとか、福本先生的なゲームをリアルにリスクを背負ってやるとか)を産み出す必要があるのかも知れないな。あとは単純に賞金1億とか。

いずれにしろ、最新or応用技術とツールが加わることによって、突如古いアイデアが活性化し、見慣れた光景が一挙に新しい地平に書き換えられる瞬間に立会うのは心がワクワクする。
 携帯の登場で、友達や家族とのコミニュケーションが大幅に変化したり、ミステリーのシナリオに作家が必ず言い訳を入れなくてはならなくなった時のように。
 TwitterやUstreamの登場で既存メディアの構造が大きく変革を迫られている今現在のように。

*************************************

 話は戻って、来た上で変わって。

 個人の可処分時間が減り続ける中、ゲームのプライオリティをどの程度高められるかというのはメーカーに取って大きな課題なのだろうけれど、それがうまく行き過ぎても、例えば「ネトゲは人間性を求める行為(普通の感謝とか協力とかによる承認欲求など)を取り入れたからこそ廃人を産み出すまでになった」みたいな議論もある(「ねとすたシリアス」内での濱野智史氏の発言)し、程度の問題だがそれが非生産的なものに過ぎないなら、現実への過度の侵食は、好き嫌いの問題とは別に社会的な問題を産んでしまうだろうし…。

 人間性の搾取と言えば、例えばMAD職人の皆様は一銭にもならないのに神とか乙とか言われるためだけに多大な時間と労力を費やし、場合によっては違法行為までしているのだから、実はニコ動というネトゲの廃人だと言えなくもない(必ずしも非生産的なわけではないが)。
 つかそれ言ったらそもそも人生は恋愛だって仕事だってなんでもゲームに見立てることは可能だし、そういう言説はポピュラーじゃんか。
 んで終いには「役を演じていると思ってポジティブシンキングで詐欺営業!」とか逆に「あれ?これもしかしてクソゲー?管理社会が俺に見させている夢?」とか言い出すお決まりのアレな感じに。

 正直、今お前がやりたいゲームはなんだと聞かれても、俺は自分のクソゲー人生においてドラキーだけで1000,000G貯めなきゃみたいな苦行に汲々としているから物理的に無理だ。
 ゲームの方向性についての善し悪しの判断はそれぞれあるだろうが、「田舎暮らしとアーバンライフのどっちがいいか」という議論と一緒で、いずれにしろリアルに金は稼がなきゃならん、という身も蓋もない前提からは逃れられないわけだし。
ギートステイトみたいな思考実験もあるけれどもちろんリアルにやるわけにはいかないし。

 やっぱ旧来型のゲームに良い未来はない気がしてきた。まあオレが歳とったってのもあるが。あんなにゲームを愛していたのに気がつけばまったくやってないし。
 間違いなく生産的だと言えるのは、愚民どもにゲームを遊ばせて搾取してやろうガハハみたいなことしか思い浮かばないなあ。
 となると、今後どういうゲームが…(振り出しに戻る)

シリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲームシリアスゲーム―教育・社会に役立つデジタルゲーム
(2007/02)
藤本 徹

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関連エントリ:「ジブリ創作のヒミツ」とキツ過ぎる葛藤400日

【追記:2011.6.15】
現実とフィクションの境界を消していく――八重尾昌輝氏に聞くARG(代替現実ゲーム)の今と未来
http://b.hatena.ne.jp/articles/201102/2224
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