しかし反撃もここまで

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「町山智浩帰国トークライブ」 映画評論家を名乗ることの覚悟、素人としての節度と価値

Category: 映画  
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昨日(2010/7/28)USTREAMで放送された「町山智浩帰国トークライブ」が非常に面白かったのだが、同時にここ最近のエントリと重なる部分も多々あり、いろいろと身につまされて考えさせられた。

参考エントリ:
「ハートロッカーを巡る論争に思う」
「映画のアトラクション化の可能性」
「ライムスター『マニフェスト』がイカ酢」

「ウィークエンドシャッフル」2008/3/8放送分の以下ポッドキャストも合わせて聞くとよりわかりやすいかも。
「配信限定!放課後DA★話(3/8)【町山編】」
「映画批評レボリューション21」
「土曜日の実験室」(ゲスト:町山智浩)
宇多丸さんのビビリぶりが今聴くと泣けるぜ…。


「ロフトチャンネル」



町山氏が「インセプション」の解説を通じて語ったことの中で印象に残ったことをメモ。黒太字は本人発言要約、「→」以下はそこから自分が思い付いたことや過去エントリの引用など。ただしあくまで私的メモで、ちゃんと網羅もしてないしいわゆる「まとめ」にはしていません。
また「インセプション」自体の解説は敢えて割愛させて頂いてます。
その理由としては、偉そうですいませんが以下2点です。
1.「インセプション」の解説、評論それ自体が町山氏の「芸」の部分なので、安易に抜粋、まとめをしたくない(つーかバカが作ったまとめを読まないで本編聞け!)
2.映画を観てもいないくせに解説を聞いて「インセプションって、ラスト・タンゴ・イン・パリのさぁ(以下略」的な受け売り、知ったかぶりをすることを憎むので、それを助長したくない


明らかな誤解があればご指摘下さい。
また「ここはこう意味じゃね?」とか「この部分を理解するにはこの本がオススメ」みたいなのもあればぜひお願いします。

・「2001年宇宙の旅」「素晴らしき哉、人生!」「地獄の黙示録」などについて解説

→ヤコペッティとソラリス以外は以下の本などですでに語られていることが多いのでそちらを。
 
映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)
(2002/08)
町山 智浩

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・脚本などの資料に当たることも、インタビューもせずに印象だけで
 わかったようなことを語りすぎている弊害が大きすぎる。知識も愛情もなく、
 最低限のこともしない映画ライターなんていらないし商業的価値はない。
 豊富な知識や愛情を持っている一部ブロガーに淘汰される。

・解釈には4つのレイヤーがある(→まだ未整理?階層になってない)
 すぐに「自由な解釈」を主張するが、それ以前に読み違えしちゃまずいだろう。
 基本的に第三層(仮)までは解釈の自由はない!
 すべての人が言論をする状況=すべての言論、思想が無意味化する
 「自分の(幼稚な)意見」ばかりで教養が崩壊する

 →多様な解釈というのは、基本が出来た上での高度な話 
 何百年もかけて作ってきた基礎を理解した上での応用であって、基礎がなければ
 下手くそが描いた絵を「ピカソみたいで個性的で素晴らしい」というようなもの
 学校の国語のテストで「起きた出来事」や「筆者の言いたいこと」をひとつに決めるのは
 おかしい、解釈は多様だ、という文句をいう生徒が結構いたことを思い出す
 国語のテストではお前の意見など聞いてない、事実解釈は多様ではない、という
 論理的思考の基礎訓練が出来ていないことが問題
 学校の国語はセンスや感覚ではなく思考訓練だという認識の欠如のツケが
 回ってきているのかも

子どものための論理トレーニング・プリント子どものための論理トレーニング・プリント
(2005/01/25)
三森ゆりか

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「つくば言語技術教育研究所」の一連の取り組みも面白い
http://members.jcom.home.ne.jp/lait/


音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)音楽の聴き方―聴く型と趣味を語る言葉 (中公新書)
(2009/06)
岡田 暁生

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音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。




・一般の人が幅広い映画的教養や背景すべてを網羅する必要はないし
 便実的に無理。それを代わりにやるのが映画評論家という仕事の価値で、自分が
 「映画評論家」と名乗るのはその重荷を背負う覚悟があるから


「ハートロッカーを巡る論争に思う」

そう、自分が批評家ごっこすをるのではなく、良い批評家の助けを得ながら
主観だけで映画を見れる、ということは、ある意味でとても贅沢なことなのだ。



・何世紀にもわたる集合知の積み重ねという最低限の事実と検証は踏まえようよ
 オンリーワンとか個性と言われた弊害で、偽評論家もブロガーも
 自分の意見ばかり言う
 素人はそれでいいかも知れないが、評論家は違う
 映画の良さを伝えたいという衝動が出発点なはずなのに
 映画をダシにして「自分を語りたい奴」が増えている


 →最近主流になっている「集合知」「オープンソース」的な発想への問題点提起でもある
 技術の世界では比較的有効だが(良いプログラムかどうかはわかりやすいし感情的反論も
 おきにくい)思想や文化の世界では集合知を集合愚が食い尽くしてしまう問題もある

 しかし、作り手や専門家の研究、一般的解釈を理解する努力をし、最大限の敬意を
 表した上で素人が述べる「個人的な感想」や、敢えて行う誤読やネタ化はOKではないか。
 確かに素人がえらそうに批評の真似事をしてもしょうがない。
 でも、素人が優れた評論家から解説してもらう真の意義は、それを受け売りで語る
 ためではなく、知識を増やすためでもなく、自分の人生を、社会をなんらかの形で変える
 ことにあるのではないか。
 それが素人の節度であり、素人の価値。

RHYMESTER「K.U.F.U.」 by宇多丸


最初はほんのちょっとしたチェンジだが未来にとっちゃ大事なチャレンジ
芸術・科学・経済に政治も ウン千年かけて拡げたレンジ
ナメたらアカン その蓄積を ナメたらアカン ウンチクや説教
ナメたらアカン そのセコい知恵こそ通じてんぜ 大いなる道へ


「グラン・トリノは俺の映画か?」

目の前で火事が起きた際に、火事だと叫ぶ役目も、バケツを運ぶ役目も、消火栓を探す役目も、その手際の良し悪しを評価する役目もあってしかるべきだし、社会全体のためには必要なことだろう。
でも、みんなでバケツをグルグルとリレーし、得意げにその速さと所作の巧みさを競って回し続け、いつまで経っても誰も水をかけず、飛び込みもせず、燃え盛る炎を前にして「消防署のサイレンの響きに感動した」とか「バケツの大きさはこの半分であるべき」などと優雅にも語り合い、その上逃げ出しすらしないのは笑えない状況だ。


「映画のアトラクション化の可能性」

「これは映画だ」と認識し、背後事情、歴史的文脈、メタ的構造を把握することが映画の「物語としての力」を失わせることになる場合もあるだろう。
それでもこういうことを無碍に否定したくないのは、結局「ゲーム体験」も「映画体験」も「ネット体験」も本当はなくてすべては「人生体験」だと考えたいからだ。そこだけで消化して終わり、というのではあまりにもったいない。
「如何に現実にフィードバックするか」みたいな話になると功利主義のようだが、「反戦映画を見て絶賛しておきながら、現実ではひどいレイシスト」みないなのは最低だし、しかしそれは程度の差こそあれ結構陥りがちな罠だ。


「にほんごであそぼ」についての提案

先天的な才能(または異常性)によって真に新しいものを作り出せるような人はごく限られており、一般的に人間は過去の集合知の蓄積を習得、消化することによって自分なりの解釈や表現をささやかに身に付けて行くものだろう。
「あなたらしさ」とか「ナンバーワンよりオンリーワン」とか「クリエイティブな職種」とか「衝撃のラスト5分!」みたいな浅はかなセリフは、せめて町の図書館の全蔵書を読破してから言え、という謙虚さと冷静さは肝に銘じて生きていきたい。


「ハートロッカーを巡る論争に思う」

 世の中には良い映画批評ブログもあるけれど、しかし結局「客観的に批評する」ことで例えば町山さんのようなプロに匹敵するのはまず物理的に不可能(最低限やるべきこととしては原作の理解、監督他製作者へのインタビュー、その国の文化や時代背景の理解、製作国の言語がネイティブで話せること、カメラや脚本などについての技術的知識などがある)で、そうなると批評は捨てて主観に引き寄せる感想の方が、(悪い意味での)印象批評や表層批評や読書感想文と言われようが、素人がやる分には結局誠実で真に迫るのではないだろうか。



・「インセプション」のテーマは無限後退の恐怖と罪
  「キャリー」
  「うる星やつらビューティフルドリーマー」
  「マトリックス」
  「トータル・リコール」(フィリップ・K・ディック)などなど
  そして「シベリア超特急」!!
 
・ロバート・フロストの詩
 解釈の自由はどこまで許されるのか
 一般的解釈まではきっちりやろうよ 
 (そしてそれはみんなが思っているよりずっと大変なものだよ)

・蓮實重彦の表層批評は従来の意味批評(テーマ主義)に対する反動として生まれた
 凡庸なテーマを論じても無意味 枠からの逸脱を観よ
 しかしその悪しきフォロアーが増長したのが悪いテキスト論、印象批評
 それが映画批評や文化の崩壊につながった


 →進化、権威化、堕落、反動、進化…を繰り返して前進するのは
 映画批評に限らず文明進歩の基本的メカニズム。
 今は町山メソッドに多くの人が共感しているが、彼のバッドフォロアーが
 生じることも、またそれに対するアンチが生まれることも彼は否定していない。


表層批評宣言 (ちくま文庫)表層批評宣言 (ちくま文庫)
(1985/12)
蓮實 重彦

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読むための理論―文学・思想・批評読むための理論―文学・思想・批評
(1991/06/15)
石原 千秋、木股 知史 他

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・テーマはたいてい凡庸なもの 凡庸な物語=近代(的自我)
 民話など近代以前の物語にはオチもテーマも意味もない(浦島太郎)
 それに思想が毒されている
 近代とは子どもが大人になり主体・主人公として運営していくもの
 (かつては王様や法王の言いなり)
 個々人が大人/主役にならなければならない社会的要請があったから、ハリウッドは
 個人の成長を描く それが凡庸なテーマばかりになってしまう理由でもある

 →寓話の悪徳 わかりやすい話からの想像力の欠如 偏見や思考停止
    
・1968年ヘイズコード撤廃によってニューシネマが始まる(学生運動などの影響も)
 凡庸なテーマからの逸脱 しかし蓮實はそれも批判
  自分の主張の垂れ流しにすぎなくて、美学がない 枠があってこその自由
 「スター・ウォーズ」「ロッキー」などによってその時代も終わる


・トーマス・マン 教養文学(ビルドゥングスロマン)
 みんなが大人になる必要があった(大人にならなければ死ぬから)
 ところが、近代以降では社会が豊かで安定したため、子供のままでも済むようになった


 →ポストモダン化、大きな物語の崩壊という社会背景

・「主役でない意識」neet問題 大人になってもしょうがない
 ボルヘス「円環の廃墟」自分が誰かの夢の登場人物だと気付く話
 唯我論は「自分以外はいないかも知れない」
 円環の廃墟は「自分すらいないかも知れない」
 自分は「お客さん」だから、教養も知識も映画も文化も政治も学ばなくていい、
 放っておいていい、関係ないと思ってしまう 
 現実感覚の希薄化と教養の崩壊
 教養とは、自分と他者との違いを理解すること


 →「逆張りだけが人生か」
 ポジショニングとリスクテイクだけで、主体性のない人間の無意味さ
 →「なにが本当にブラックなのか?」
 教養とは何なのか。単なる知識に頼ることの危険性

・「ハートロッカー」論争
 ストーリーが理解しづらいが子供→試練→大人 の三部構成
 キャスリン・ビグローの思想:狂気や戦争中毒と英雄行為は紙一重 しかし
 それこそが生きる実感を掴むということで否定出来ないもの


 →映画評論家としても名を成し始めている宇多丸師匠(子供)
             ↓ 
  プロの評論家である町山氏と対立、反発、挫折(試練)
             ↓
  評論家、表現者として一皮剥けた新宇多丸に成長!(大人)
  
 という建設的展開希望  

・イデオロギーと映画の評価は別
 一緒だとブルース・リーも硫黄島も評価できない=「テーマがいいから良い映画」という
 意味批評に戻ってしまう


 →この点やや整理不足な感もあり

・「マイレージ・マイライフ」「レスラー」「クレイジーハート」も同じ構造の映画
 「calling」(天職)、使命を知り、幼稚な「可能性」から卒業して大人になる、
 ということがテーマ 自由とは不自由を抱え込む上に成り立つ
 町山氏も、才能や自信があるからではなく、使命感で映画批評に取り組んでいる、という態度

 
 →calling(「神が」呼ぶ)の背景にはキリスト教的価値観、死生観がある
 「なりたい自分になる」「ホントの自分探し」「好きを仕事にする」的な現代日本の価値観は、それはそれで意義あるものかも知れないが、宗教や規範のない社会ならではの難しさも同時に内包してしまう。 
 前向きに「社会の中での自分の役目を知る」という発想は、現代日本ではほとんど共有されていない。それが日本の個人主義、自己責任論、政治アレルギーなどに繋がる?
 「五十而知天命」


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・しかし批評家ではなく表現者として自分をぶつけて語ることの価値もある
 それによってイデオロギーも超えられる
 宇多丸は特権的な表現者なので、自分をぶつけるべき
 観察者、研究者、お客さん、傍観者では意味が無い


 →「ハートロッカーを巡る論争に思う」

思うに宇多丸師匠は、幼稚な感想批評をしたのではもちろんなく、逆に感想ではない冷静な「批評」をしようと真摯に努力して、そしてその罠にはまったのだ。
まあ要するにこれだ。
「ヘタな知識持つだけ邪魔んなる 自分らしくありゃ即サマんなる」
(ザ・グレート・アマチュアリズム)
つまり、町山さんにしては結構気を遣っていて、厳しい言葉はなかったが、「ガチで映画の技術論や批評を宇多丸くんがしても無意味だし限界がある」こと、しかし「そうじゃない価値こそシネマハスラーにはある」ということを言いたかったのでは。



・「ハートロッカー」のテーマは「でもやるんだよ精神」
 「でもやるんだよ精神」が偉大なのは「成熟した大人」だから


 →ただの無茶やわがままや根性論や「夢をあきらめない!」ではなく、自分の限界も、絶望も、諦観も、悲しみもすべて織り込んだ上での覚悟だから価値がある
 

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・質問者1「宇多丸さんにツイッターで謝っていたのと齟齬がないか?」

 →愚かな質問!あのツイートは謝罪ではなく明らかに強烈な攻撃の一手!

・質問者2「キューブリックがわかりづらくしたのだから、多元的な見方は
      監督が意図したものだから良いのではないか?」
 一方的に答えを提示すると脊髄反射的に反発し受け入れない人が多い
 だが自分で気付いたことは信じやすい
 だからキューブリックは気付く人たちのためにナレーションを消した
 (=勝手な解釈を容認するためではない)


 →表現を効果的に伝えるための手法
  ウェブの炎上や世論誘導など、アンチを増やすもの、動員させるのも、ある種の層の人たちにとっては非常に自覚的でたやすいことなのかもしれない
  少なくとも大衆は自分で選んでいるようで、賛成反対どちらにせよ意外と安易にコントロールされているのかも
 
 
メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会 (集英社新書)メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会 (集英社新書)
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・吉田豪の質問「映画ライターみたいなのが許せないなら何ならいいのか?」
 司会者の失態で意図が伝わらず

  
  →吉田豪としては「映画うんこばえ」みたいな名前を付けてもらいたかった、みたいな話。

・死む/死ぬを間違える

 →オレも未だに「む」と「ぬ」を書き間違えるよ!

・町山さんはTENGAに興味がない!

 →このへんにアラフィフの町山さんとの世代間ギャップを感じるな

・異論反論、論理矛盾指摘OK。これからブラッシュアップしていく

→で、結局これらの議論を踏まえた上で、表現者でも評論家でもない俺みたいな無知な凡人は何をすべきか/すべきでないか、を考えなきゃアカンのかも


【追記(2010.10.9)】
togetter(私家版)『マイレージ、マイライフ』の一解釈をめぐる映画評論家町山智浩(@TomoMachi)と@my_yoursの議論
http://togetter.com/li/57753
長いけど、これをおかずにどんぶり飯3杯くらいいけるな。
内容はもちろん、緊張感と敬意に溢れた良い議論の見本のようなやりとり(いきなりパンチから入っているけど、お互い間違いは認めて議論のための議論をしていない、という意味で)。
個人的には上のエントリで保留にしていた問題(主にビルドゥングスロマンとそれに変わる価値観の創造について)をいろいろと解決してくれたような気がする。
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「グラン・トリノ」は俺の映画か?

Category: 映画  
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今更だけど「グラン・トリノ」について。
うちにはPS3があるからアマゾンへのリンクもBlu-ray版さフフン。

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映画ファンの端くれの味噌っかすとして、これがいかに傑作であるかということをいろいろな側面から説明する準備も十分にあるし、多くの人が高く評価するのも、語りたがるのも当然のことと思う。
それについて一切批判する気持ちはありません。

しかーしだ。
多くの映画誌やウェブ上のサイト、ブログなどにおいて、2009年ベストランキングでこの映画が上位(それも大抵は3位以内)に挙げられているのを見ると、多少の違和感を感じてしまう。

正直に言えば、自分は冒頭部で息子に感情移入し、それを引きずってしまった。
頑固爺さんに愛想を尽かし、仕事や家族を優先させ、トヨタ車に乗り、死んだら車をもらおうと思っている、「現代的で合理的な」息子家族。
偏屈な爺さんの訳の解らん論理に振り回され、苦労し、コミニュケーションが取れず、せっかくの優しさも踏みにじられ、やがて諦め、感傷を捨て合理的な判断をする自分を良しとする。
それは現実においては、誰からも責められることはないし、むしろ正しい決断として肯定される。
私自身もそう思うし、実際にそう行動している。
安易な感傷や愛憎なんて百往復して、とっくに擦り切れてしまったよ。

で、なんでみんなそんなに簡単に、コワルスキーやタオ側に立って語れるんだ?

自らの小さな体験にこだわり、この映画で扱っている大切なテーマから目を逸らすことが愚かなのはわかる。
俺は年寄りが嫌いだから、何を言っても聞く耳持たん、という無益な世代の断絶や拒絶を肯定しているわけでもない。
宇野常寛のような人が、自己憐憫的でマッチョイズムの軟着陸を可能にしている、と批判するのもある程度理解できるが(日刊サイゾー記事)、それも批評に過ぎなくて自分が感じている違和感とも異なる気がする。
恐らくもっとミニマムな、日常と地続きの問題だ。

要するに自分が感じているのは、ここ数回のエントリーで繰り返していることだが、自分のこととしてこの映画を観たときに、

・オレは本当にこのジジイの決断に共感出来る、或いはすべき人間なのか?
・散々老害に苦労をしてきたオレが、今この状況で、自分の人生を総括し
 決断をする老人の心の機微を理解し、我が身に置き換え、心から涙する
 準備が本当にあるのか?


そこをもう少し真摯に、そして慎重に考えてみるべきなんじゃないか、ということだ。

*************************************

この違和感は、もしかしたら國母選手への例の件への世間の反応に対するものと近いかもしれない。
グラン・トリノを賞賛するにしろ國母選手を批判するにしろ、そこに語り手の、自己批判や現実へのフィードバックを伴っていないという点で共通する空虚さがあるんじゃないか。

もちろん私だって、社会人として國母選手を批判するロジックはいくらでも準備出来る。
組織の代表として協会側の言い分もわかるし気持ちも察する。
「社会的倫理感」を得意げに振り回す人達の心理的要因もまあ理解しよう。
けれど、善し悪しの判断以前の、もっとシンプルな感情として、
「おいおい、お前も俺も、ムカつく説教を散々聞かされた側じゃなかったのかよ?」

という、少し裏切られたような、怖いような気持ちが沸き上がる。

誰しも社会に出立ての頃はその若さや甘さから苦労し、反発もし、しかしひとつずつ学んでいって大人になっていく。
それ自体は個人にとって有意義な経験だし社会にとっても必要な機能だろう。
だが、同世代の友人知人を見ていると、必ずダメな奴から「今年の新人は使えねえ」と言い出す。
(私のささやかな経験による結論ではあるけど、多くの人に賛同してもらえる法則だろう)
「ゆとり世代」がゆとってるかどうかの証明は非常に困難だしそもそも一概に言えないが、「ゆとり使えねえ」と言う人が愚かだということは歴然としている。

自分が「使えねえ奴」だったことなど忘れ、いや依然として「使えねえ奴」だからこそ、先輩風を吹かせて自らの存在価値を確保するのに必死になってしまう。
「おいおい、お前も俺も、理不尽な先輩に中指立ててた側じゃなかったのかよ?」
「大人になる」ってそういうことじゃないぜ。
お前はどうなんだよ。

*************************************


「子どもの頃は親に迷惑をかけたけど、自分が子どもを持ったら親の気持ちがわかったよ」

というセリフは口にしないようにしている。
それは単に、子どもの頃は子どもの理屈で、大人になったら子どもの頃の気持ちは忘れて大人の理屈で動くということで、つまりは想像力を放棄し、その時々で自分に都合の良いように物事を解釈しようとするということだ。

しかしそう思うならば、仮にジジイの境地には至らなくても、少なくともいろいろな想像は出来るのでは?
「ラストの決断をしたコワルスキーに感動で震えがナンタラ」
「イーストウッドが俳優引退作として、これまでのキャリアを総括しカンタラ」
「アメリカがこの半世紀に積み上げてきた政治、経済、宗教様々な問題を体現しているからこそウンタラ」等々と。

批評家が映画の、映画としての完成度の高さを評価したり、テーマや背景を解説するのはもちろんとても意義ある作業だ。
「体験」していないこと以外は口を出してはいけない、という間違った経験原理主義みたいな主張をしたいのでも当然ない。
またイーストウッド作に特に愛着があり、「男」とは何かを教えてもらい、ともに成長してきたという人にとって本作はかけがえのない作品で、そういう「体験」もあるだろう。

しかし今の自分が「ジジイの気持ちがわかるぜ」と表明するのは、これまでの自分の人生における行動や環境を考えると、まったく不誠実だと思うし、まるで高みから偉そうに語る傍観者のようで嫌だ。
個人が批評家のまねごとをしていい気になって何になる。
お前はどうなんだよ。

目の前で火事が起きた際に、火事だと叫ぶ役目も、バケツを運ぶ役目も、消火栓を探す役目も、その手際の良し悪しを評価する役目もあってしかるべきだし、社会全体のためには必要なことだろう。
でも、みんなでバケツをグルグルとリレーし、得意げにその速さと所作の巧みさを競って回し続け、いつまで経っても誰も水をかけず、飛び込みもせず、燃え盛る炎を前にして「消防署のサイレンの響きに感動した」とか「バケツの大きさはこの半分であるべき」などと優雅にも語り合い、その上逃げ出しすらしないのは笑えない状況だ。

だから自分は、ここで不毛なバケツリレーをやめ、今回は勇気を持って逃げ出す。
オレには、この映画の語るイーストウッドの真意やアメリカ社会の抱える歴史的文脈をたとえ理解は出来ても実感は出来ないし、今は必要としていない。
だから自分はこの映画を高く評価していい気になっちゃいけない。
もしかしたら将来、この映画を号泣しながら観る日が来るかも知れないが。


※ついでに言うと、宇多丸さんはタマフル内での2009年ベストで、イーストウッドフリークとして「グラン・トリノ」を2位に挙げつつ、「俺の映画」という意味で「SRサイタマノラッパー」を1位にしており、そのことでより一層シネマハスラーを信頼した。

タマフルポッドキャスト
「シネマ・ランキング2009【ベスト10】【ワースト10+3】」

 それなら「ハートロッカー」論についてもそういう観点に立ち位置を置いてみる、ということが出来たはずじゃないかな、ともちょっと思ったが、客観的批評をしようと努めていたのだからその気持ちももちろんわかる。


【追記】

なにも「グラン・トリノ」でこのテーマについて書く必要もなかったかな…。
「レスラー」や「アンヴィル」みたいないわゆる男泣き映画について敬意を払いつつもロクに勝負してないオレみたいな奴が安易に「泣いた!」と言うのは不誠実だ、という話にすればよかったかも。

つかもっと平たく言えば
「童貞じゃないくせに童貞トークに入ってくる奴、死ねばいいのに!」by片桐仁
って話だな。

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テーマ : 映画レビュー    ジャンル : 映画

「ハートロッカー」を巡る論争に思う

Category: 映画   Tagged: 宇多丸  町山智浩  ハートロッカー  タマフル  映画  Twitter  ポッドキャスト  
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「ライムスター宇多丸のウィークエンドシャッフル」
3月27日収録分、ポッドキャスト限定配信された、町山智浩氏との「ハートロッカー」評をめぐるバトルが面白かった。

「放課後DA★話特別編【part1】」
「放課後DA★話特別編【part2】」
「放課後DA★話特別編【part3】」

※きっかけとなったTwitterは以下を御覧下さい。
トゥギャッター「町山智浩×宇多丸『ハートロッカー』まとめ」
http://togetter.com/li/10915


お互いの意見を一応尊重しながらも、最後まで平行線だった原因は映画批評の目的と立場が違うからだろう。

宇多さんは
・映画のメッセージについては一応正確に受け止めているつもり。
・それでもあの描き方では誤解する人が多いのではないか。
・戦争で実際に被害を受けているイラクの人にとっては、アメリカ人に
 とっての葛藤や苦悩などいい迷惑で傲慢に感じる。
・作り手の意図が、作品における絶対の正解とは思わない。
・個人として作品と向き合う、ということは主観で語ることになり、
 それは批評という合理的行為をする上で基本的に避けなければならない。

という主張と態度。

対して町山さんとしては、勝手にまとめると
・映画批評を客観的にするならば、自身の思想的バイアスは捨てた上で監督へのインタビューをしたり、楽曲、脚本など「徹底的に」調べ上げろ。
・わかりにくい部分があって、それを「よくわかりません」というのは映画を紹介する者(=プロの映画評論家)として不十分。その意味を調べて解説することこそが映画評論家の使命である。
・(日本在住で映画が本業ではない宇多丸くんにはそれは現実的に無理なのだから)逆に個人として作品と対峙して見せろ。
・明確なメッセージを本人は受け取っているのに、それをどう感じるかより「わかりにくい」という技術論で語るのは、悪い意味での「評論家の意見」であって、ラッパーであり表現者である宇多丸くんにとっては逃げだ。

という論旨じゃないかと。
正直、各主張が混線しているような気がするが、リアルタイムで話をする中で「ただの観客として」「客観的な批評家として」に加えて「作品の紹介者として」そして「俺のこととして」という多層的なポジショニングをしたからしょうがない。
それぞれの主張は筋が通っている。


思うに宇多丸師匠は、幼稚な感想批評をしたのではもちろんなく、逆に感想ではない冷静な「批評」をしようと真摯に努力して、そしてその罠にはまったのだ。
まあ要するにこれだ。

「ヘタな知識持つだけ邪魔んなる 自分らしくありゃ即サマんなる」
(ザ・グレート・アマチュアリズム)


つまり、町山さんにしては結構気を遣っていて、厳しい言葉はなかったが、

「ガチで映画の技術論や批評を宇多丸くんがしても無意味だし限界がある」
こと、しかし
「そうじゃない価値こそシネマハスラーにはある」


ということを言いたかったのでは。
それは映画批評本を出し、「同業」として見た宇多さんへの厳しくも暖かい先輩としての洗礼だった、とするのは両氏のファンである自分のような人間にとっては、建設的で良い落とし所じゃないだろうか。


ちなみにその前週のタマフルでは「アメリカHIPHOP入門」を特集していたが、それを聞いたHIPHOPに疎い自分のような人間が、

「いや俺はシーンの流れも歴史的文脈も一通り理解しましたよ
 でもHIPHOPて、なんでバカっぽい表現するの?
 誤解招きやすいじゃん
 意味はわかるけど全然伝わらねえ
 あとドラッグ売られた人とか撃たれた人にとっちゃいい迷惑だよ」

と言って片付けたらどうだろう。
批評としても個人的感想としても愚かなのは明白だし、何よりもったいない。
だからこそ宇多さんやZEEBRAや「チェック・ザ・テクニーク」が、「HIPHOPの紹介者として」解説してくれることに意味がある。


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さて、我が身にも引きつけて(「俺のこととして」)考えてみると、ブログなどで映画を始め何かの批評をするということは非常に難しいことだと改めて考えさせられた。

下書きには数十と映画評を書いたが、結局現時点で公開しているのは周辺環境を中心に書いた「アバター」と、自分が論じられる地点に引きずり込んだ「選挙」だけだ。
世の中には良い映画批評ブログもあるけれど、しかし結局「客観的に批評/分析する」ことで例えば町山さんのようなプロに匹敵するのはまず物理的に不可能(最低限やるべきこととしては原作の理解、監督他製作者へのインタビュー、その国の文化や時代背景の理解、製作国の言語がネイティブで話せること、カメラや脚本などについての技術的知識などがある)で、そうなると批評は捨てて主観に引き寄せる感想の方が、(悪い意味での)印象批評や表層批評や読書感想文と言われようが、素人がやる分には結局誠実で真に迫るのではないだろうか。
もちろんちょっとした視点のズラシや専門家視点(「現役ヤクザの俺から見た極妻シリーズ」とか)、風刺、ネタ化とかも十分面白いのだが…。

結局、半端な批評をするくらいなら、クソみたいなデート映画でも、初デートでその映画がいかに役に立ったかを熱く語ってくれたかの方がよっぽと面白いはずだ。
客観的に見た場合にひどい映画でも、自分の人生に少しでも残ったら、それはその人にとって「いい映画」だと言って良い贅沢。
そう、自分が批評家ごっこすをるのではなく、良い批評家の助けを得ながら主観だけで映画を見れる、ということは、ある意味でとても贅沢なことなのだ。


例えばそれがうまく行っているのがみうらじゅんの「そこがいいんじゃない!」やエガちゃんの「エィガ批評宣言」みたいな、俺vs映画をサシで語る方法とかじゃないかと。
要するにバカのくせに批評の真似事しちゃだめなんだよな、ということ、そして「アバター」評でも書いたが、どんな立派な批評を書こうとも、書き手に中身が伴ってないなら無意味で空虚だということを改めて考えてみた。

【追記:2011.6.24】
要するにこれは、批評じゃなくて随筆のススメ、ですな。
まあどちらも大事なんだけど、この区別は少し忘れがちになる。
批評としてはまるでダメと貶されていても、随筆や自分語りとしては素晴らしい、という文章は、ネット上の素人言説と揶揄されるものにだってたくさんある、と思います。

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関連エントリ:「ライムスター『マニフェスト』がイカ酢」
       「町山智浩帰国トークライブ」映画評論家としての覚悟、素人としての節度と価値

追記(2010/7/21):
2010/7/14放送「キラ☆キラ」での宇多丸&町山の会話、および2010/7/20 USTREAMでの枡野浩一&町山の会話から察すると、残念ながら結構関係が悪くなってるっぽい。
二人ともこじらせると面倒くさそうな人たちだからなあ…。
まあ大人なのでケンカしないでくれるとファンにとってはありがたいのですが。
まあ枡野浩一氏が一番面倒くさそうだけどw

「キラ☆キラ」ポッドキャスト 「アメリカのテレビドラマ『グリー』について」
http://podcast.tbsradio.jp/kirakira/files/20100714_machiyama.mp3


「町山智浩さんと歌舞伎町のB-WABEで」


しかし、罪山罰太郎vs侍功夫の例の件といい、志のある人達が罵り合っている間にも、小利口なクソ映画メイカーたちは高級ワインを飲み、入江悠監督は家賃も払えない、という状況はイヤンだなあ。
文学論語ってもしょうがないんだよ。産業構造の変革とか考えないと。
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テーマ : ハート・ロッカー    ジャンル : 映画

映画のアトラクション化の可能性

Category: 映画   Tagged: 映画  アバター  宇多丸  ゲーム    
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先日のブログで「マニフェスト」を取り上げてマンセーしたんだが本屋に行ったら今度は絶好のサンドバックがぶら下がってるじゃないですか。

映画秘宝4月号

「ライムスター宇多丸が問う!!これはホントに面白いのか!?
  ―あなたは『アバター』にだまされている!?」

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こりゃなかなか香ばしそうだなと思って早速読んだのだが、内容は高橋ヨシキ氏がボロカス言って宇多丸師匠が一応擁護、という肩透かしな展開。
その後ラジオで宇多丸師匠自身が言っていたが、編集が勝手につけた惹句だったらしい。

だから改めて言うまでもないが、

「3D映像はスゲー、ただしデザインはダセー、脚本はヒデー」

ということでいいじゃないか。みんなもそんな感じだろう。
「いや~アバターすごいね。話はアレだけど」ぐらいの感じで。
キャメロンだってこの作品の芸術性の高さやメッセージ性が抜群だと強く訴えているわけじゃないし。

それにこういう映画が当たってくれることで、結果的には今後の3D作品の製作に道筋をつける、より具体的に言えば上映環境が整備され、開発費が低減し、3D作品の企画を通すための予算的ハードルが下がることになり、

「ジョン・ウォーターズの新作が3Dで上映予定!
今度は飛び出すウンコ食うよ!」

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みたいな映画も製作されるかもしれない。
つまり結果として文化的な裾野が広がるわけだ。
文化と経済は、対立的にではなく補完的に考える方が現実的だし創造的だ。

【追記:2010.11.18】
とか言ってたら、マジで飛び出すウンコ映画が!!
「ジャッカス3D」

http://www.jackassmovie.com/#/home

個人的には、ガラガラの新宿IMAXを憂い、閉館後には品川や軽井沢のIMAXにまで足を運び、さらには「しらね大凧と歴史の館」にわざわざ行って大凧合戦の3D映像まで見た経験から

「3Dタンは人気がない!金も掛かる!オレが守ってあげなきゃ!」

という気持ちが強かったし、業界全体もきっと、スムーズに3D環境を推進出来るか「アバター」の業績を注意深く(人によっては祈るような気持ちで)見つめていたはずだ。
商業主義的と批判するのは簡単だけど、これは「儲かったから正義」っていう話ではなくて、経済活動、というか自分自身が立脚する社会全体に対する想像力に関する話ではないだろうか。


さて、ではそもそも「映画の3D化」は良いことなんだろうか?
3D化=アトラクション化=デートムービー化=アホ化
的な文脈で語られることも多いが、自分としては、3D化自体はともかくアトラクション化の意味を「より現実との接点を意識して体験的になる」つまり「認識」や「理解」を「実感」に近づけるもの、とするなら結構希望を持っている。

確かにそれを必要としない and してはいけない作品もあるだろうが、きっとそれによって産まれる新たな感動も芸術的価値もあるはずだ、と思う。

「アバター」公開からひと月余りの2010年2月18日、PS3で「HEAVYRAIN-心の軋むとき-」というゲームが発売された。

HEAVY RAIN(ヘビーレイン) -心の軋むとき-HEAVY RAIN(ヘビーレイン) -心の軋むとき-
(2010/02/18)
PLAYSTATION 3

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知らない方にざっくり説明すると、「セブン」(デビッド・フィンチャー)的なサイコサスペンスを、テキストアドベンチャーではなく、あくまで「ゲーム世界内で主人公として行動、選択する」ことによって進めるという挑戦的試みだ。

ハードの高スペック化に伴って喧伝された「ゲームと映画の融合」には、FF的な「ゲームに美麗なムービーを挿入してより感情移入させる」という方法論もあるが、「HEAVYRAIN」が目指しているのは明らかにそれとは違う。
観客が主人公の選択に介入出来る映画(的ゲーム)」を作ることによって、今までにない新たな体験を提供しようとしているんじゃないだろうか。

自分自身「HEAVYRAIN」をプレイしていて、子どもを持つ身としては辛いシナリオ故になかなかエンタメとして消化出来ず、しかし先に進みたい、でも辛くて嫌だ、と葛藤している。
単に脚本がしんどい、というだけではない。それならばゲームじゃなくて読書でも同じだ。
「自分で主人公を操作して行動し、恐ろしい選択をしなければいけない」
ということが、思いのほか効果的で、とても苦しいのだ。

それは今まで、ゲームはもちろん、映画や本でもあまり感じたことのない感覚だったから、少なくとも私に関しては、製作者の試みは成功している。

そもそも優れたゲームは、作品としての評価はともかく、大概の映画よりもずっと深く「体験」として刻まれやすいのではないだろうか。
なぜなら、一方的、受動的に物語を受け入れるのではなく、ゲームでは何らかのアクションによって自ら「選択」をしなければいけないからだ(携わる時間が圧倒的に多い、という理由もあるが)。
ちなみに一本道と批判されるFFの最新作でさえ、歴史上のどんな映画よりも、選べる「選択肢」は圧倒的に多いはずだ。
「サイレント・ヒル」や「バイオハザード」のようなホラーゲームは恐らく「体験のし易さ」という特性をもっとも効果的に利用しているジャンルだろうし、サウンドノベル(エロゲ含む)やRPGなどシナリオ重点のものも、客観的に見ればさほどレベルの高くないエンタメ小説程度の内容でも、ゲームであるが故に強烈に記憶に焼き付けることが出来る。
(個人的には「新鬼ヶ島」や「ファミコン探偵倶楽部」、「デッド・ゾーン」「水晶のドラゴン」といったファミコン/ディスクシステム初期のアドベンチャーが未だに忘れがたい。)
ftc.jpg
「ファミコン探偵倶楽部・うしろに立つ少女」

このように「ゲームの映画化」、つまりゲームに映画的な要素を効果的に取り込もうというチャレンジがこれまでに多くなされ、実際に成果も上げてきた。
もともと体験を刻むのに有利なメディアな上に、脚本、演出など映画のスキルが応用されれば従来にない作品が出来得るし、訴求する層も格段に広くなるだろう。「メタルギア」「グランド・セフト・オート」などはまさにその文脈から出てきた名作、と言えるかも知れない。



翻って映画側から考えた場合も、もっと「アトラクション化」へのチャレンジがあっていいのでは、と思う。
「グラン・トリノ」のラストで、イーストウッドが選択を俺(観客)に迫ってきたら?
「レントン教授と永遠の歌姫」が、ゲーム原作である意味がない凡庸なアニメなら、いっそ上映の途中で観客が考える時間を作ってみたら?
作品の作家性や完成度は犠牲になるだろうし、映画館という場所で上映する上での物理的限界もあるだろうが、いろいろと想像してみるのは案外ワクワクする作業だ。

古くはウィリアム・キャッスルのギミックホラー(劇場の椅子に電気が走ったりするw)なんてのもあったし、プリキュアの新作を娘と一緒に劇場へ観に行き、ピンチになったらペンライトを振って応援するのも楽しみにしている。
「チャーリーとチョコレート工場」でチョコの匂いを映画館に発生させたような演出も、そういった試みの一種かも知れない。
シャマランの「ハプニング」はクソ映画かも知れないが、田舎のシネコンのレイトショーで見たら観客が俺ひとりだったので、恐らく世界で一番この映画にビビったのはこの俺だ。そういう映画外の恐怖体験もある。
「未来を写した子どもたち」のように、売上の一部をインドの貧しい子どもに寄付する、という行為も、冒頭に掲げた定義から是非この「アトラクション化」に加えたい。

「3人のゴースト」ビル・マーレイが観客に直接訴えているように撮っているラストシーン(以下の動画だと第2位)



バカみたいに見えるもの、単なる「インタラクティブw」的なものももちろんあるしすべての映画がこうすべきだとはまったく思わない。
「これは映画だ」と認識し、背後事情、歴史的文脈、メタ的構造を把握することが映画の「物語としての力」を失わせることになる場合もあるだろう。
それでもこういうことを無碍に否定したくないのは、結局
「ゲーム体験」も「映画体験」も「ネット体験」も本当はなくてすべては「人生体験」だと考えたいからだ
そこだけで消化して終わり、というのではあまりにもったいない。

「如何に現実にフィードバックするか」みたいな話になると功利主義のようだが、「反戦映画を見て絶賛しておきながら、現実ではひどいレイシスト」みたいなのは最低だし、しかしそれは程度の差こそあれ結構陥りがちな罠だ。


家でひたすら殺戮ゲーするのも、難解な映画を見るのも、大学で古典を学ぶのも、ブログで好き勝手書いて悦に入るのも、結局すべて現実との接点がなければ自ら選びとった自由を謳歌しているようで、実はこれこそ本当のマトリックスなんじゃないだろうか

「読書とは、他人にものを考えてもらうことだ」というショウペンハウエルの言葉は読書を上のどの例に置き換えても有用だ。
ゲームとは、映画とは、学問とは、テレビとは…。
ただの借り物の知識や経験、上っ面の感想をひけらかすのではなく、拙くても自らの頭で考え、行動することの方がずっと敬意を払うべき行為だ。

「アトラクション化」が映画においてそのメッセージやテーマを「これはお前自身の問題だ!」と認識させるための、より強いきっかけになるならば、案外いろんな可能性をもっているんじゃないかと思う。


関連エントリ:「ゲームのアトラクション化の可能性
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